飯野賢治よ、永遠に!!disk2

<19:02>
 遅くなりすみません。ちょっと長文になります。
飯野賢治さんに対する自分の所感、というか思い出を年表風に書かせていただきます。
<1995年>
 私が飯野賢治を知ったのは、たしか1995年のセガサターンマガジンだったと思います。
ちょっとした連載を持っていたはず。
始めは”よくわからんが、ちょっと怖そうな大男”というイメージ。
1995年といえば、インターネットがボチボチ普及し始めて、Windows95が発売されて、セガとしてもサターン版バーチャファイター2が発売されてマルチメディアという言葉が具体化した年です。
その1995年末に通産省のマルチメディア大賞を獲得したのが、飯野さんの”Dの食卓”。

Dの食卓 COMPLETE GRAPHICS PlayStation the Best

Dの食卓 COMPLETE GRAPHICS PlayStation the Best

当時D食を遊んではいませんでしたが、”とにかくなんか凄い人なんだろうな”という感じでした。
<1996年>
 この年の春(だったと思う)にエネミーゼロの発売をプレイステーション(PS)からセガサターン(SS)に変更したところから、飯野さんの言動に注目するようになりました。サターンマガジンでPSからSSに変更した理由をしっかりと説明していました。
(昨日紹介した、遠藤雅伸さんのブログを参照したほうが良いです)
 当時はセガサターン派でセガ好きだった私には、”凄い奴がサターン側についた。”と嬉しくなりました。おそらく、当時のサターン派の方々はみんなそう思ったはず。
エネミー・ゼロ

エネミー・ゼロ

でも1996年は自分にとっては学生最後の年、1997年1月にエネミーゼロを買ったものの、遊ぶ余裕は無く実際にプレイしたのは2年後の1999年でした。
 あ、そうそう、確か20 or 30万円の限定版(いろいろおまけがついている)も発売されました。飯野さんが購入者に直接届けに行く、そんな企画だったと思います。その当時のものを今でも持っている人がいたら、ブログにアップしてもらいたいです。
<1997年>
 この年の1月に発売されたファイナルファンタジーVIIでPSの勝ちが決まりましたが、まだまだSSは現役ハードウェア、飯野さんは夏に"リアルサウンド 風のリグレット"を発売しました。画面には何も映らない、本当に音だけのインタラクティブラジオドラマ。
リアルサウンド風のリグレット

リアルサウンド風のリグレット

本当に何も映りませんでした(当たり前!!)。でも、面白かったです。ちょっと切ない恋物語、俺もこんな恋愛してみたい!!って思いました。いまだにそれは夢のままですが、、、、
この当時、出演者の一人である菅野美穂ちゃん(当時は19or20歳くらい)がヘアヌード写真出したりして何かと話題だった割にはこのゲームはあまりTVや新聞に取り上げられなかったなぁ、、、、
 意外と知られていませんが、結構いろいろこだわって作っていたんですよ、このゲーム。
たまたまTRON WARE(という雑誌だったと思う)を見る機会がありました。
 たしか視覚障害の方々とTVゲームに関するフォーラムのようなものがあり、その記事に飯野さんが載っていました。確か、飯野さんがこの"風のリグレット"をサターンも併せて視覚障害の方々に寄付をしたエピソードを話していました。
 実際にその方々に遊んでもらった時のこと。電車内で主人公達が会話する状況において、その環境音を聞いて"あ、これは○○線ですね!!"と当てられて、飯野さんは驚いたそうです。
 あり合わせの電車の環境音ではなく、しっかりと実際に電車に乗ってとるところが、いかにも飯野さんっぽいこだわりです。
 さらに、この年の夏、渋谷のパルコかその近くで飯野さんがちょっと変わった展示会を開催していました。それに行ったので覚えています(というか、今それを思い出しました)。
 ワイヤレスのヘッドフォンと使い捨てカメラを渡され(買ったかも)、暗闇の中を歩いていく、という展示会場。暗闇を歩いていると、ワイヤレスヘッドフォンに赤外線経由で音楽や効果音が入ってきました。歩く方向や位置を変えるとその音楽も変わる、といった感じです。じゃあ、どうやって展示されているものを見るのかと言えば、自分のカメラでフラッシュ焚いてシャッターを切った時にだけ見えるのです。実際は、他人が焚いたフラッシュで展示されているものが見れました。あとで現像した写真も見て楽しめる(?)といった、なかなか洒落た企画でした。
その時の写真何処行ったっけ、、、、

かなり長くなってしまいました。
申し訳ございませんが、この続き:1998年以降については明日書きます。
(disk3に入れ替えてください?)